本八幡行きの快速電車を一本見送り、私はいつもと同じ始発電車に乗った。乗換駅である
新宿までは5、6分なので席が空いていても座ることはまずない。優先席横のドアにもたれてスマホを立ち上げると、LINEのアイコンにメッセージの受信を知らせる赤い丸と数字の1が表示されていた。ここでLINEを開けてしまうと、すぐに返事をすべきかどうかを迷うことになる。また相手にもよるが、既読にしてしまうと返事をするまでずっとそれが気になってしまう。私はそのままスマホをバックにしまい、替わりに文庫本を取り出した。

 
 午前830分、会社に到着。電車に遅延がない限り、20年近くほぼ同じ時間に1階エレベーターの前に立つ。エレベーターを待っている間に同じ会社の人間に会ったときは、おはようございますと挨拶をするが、朝のエレベーターは混んでいることが多いので、中で目があった場合は口だけ動かして軽く会釈をする。

 席についてノートパソコンの電源を入れた。4人の社員が皆一様に袖の短いスーツ姿で挨拶をしながら、私の前を通り過ぎていった。私は4人分まとめておはようと語尾を伸ばして言った。その時目の前のパソコンがWindowsの更新を始めた。私はようやくそこでバッグからスマホを取り出し、LINEの通知を開ける。それは飲み友達からのものだった。朝一番から面倒な仕事の話だけは無いようにと願っていただけに、ひとまず安心した。

『明日、空いてる? 散歩の邪魔だったら、日曜日でもいい。よろしく!』

 彼が最近不倫相手と別れたという話を、つい先日新宿のルミネ前でばったり会った別の飲み仲間から聞いた。急に週末が暇にでもなったのだろうか。彼は40代前半で中堅商社を退職し、15年前に退職金を元手に貿易会社を始めた。彼のサラリーマン時代、私はしばしば彼から組織の窮屈さについて愚痴を聞かされていた。何事にもパワフルな彼は、好きなように立ちまわりたいという願望を叶えるために、敢えて従業員を二人だけにして、ワンマン社長を貫いている。しょっちゅう出張を入れることができるのも彼の作戦通り。もちろんそれは奥さんへの便利な口実にもなっていた。設立当初はずいぶん資金繰りに苦しんでいたようだが、中国経済の急成長が追い風となり、今では仲間内で一番羽振りがよい。設立2年目に私がカミさんに内緒で出資した私募債100万円も一割の利息が付いて返ってきた。

 私は少々その返事が遅くなっても彼は怒るような人間ではないことを知っていたので、会社が終わるまで既読にしたまま放っておいた。会社が終わり、帰り道に立ち寄った公園のベンチに座り、缶ビールを飲みながらようやくそこで返信した。

『明日の散歩は中止する。何時にどこへ行けばいい?』
 
 
帰宅してリビングで上着を着たままスマホを確認すると、赤い丸はなく、私が返信したメッセージに既読表示はなかった。腹が立つところまではいかないものの、何だ、まだ見てないのか、と心の中で呟いた。ジャージに着替え、ソファに腰を下ろし、ローテーブルに置いてあった夕刊を手にする。台所からカミさんがエプロンで手を拭きながら出てきた。ただいま、お帰りの次の会話はだいたいここで始まる。

「お父さんからもちょっとは言ってよね。ゲームばっかりして、全然受験勉強してないのよ」

話の内容はその時々によって異なるが、今年の4月以降は息子の話題が多い。正直なところ、私は息子の進路についてはあまり気にしていない。自分自身の受験経験から、本人の意識が全てであることを知っているからだ。また、ここで本音を言うほど私は鈍感ではない。



「そっか、じゃあ、日曜日にメシでも誘って、ちゃんと言っとくよ」



「どうせ、外で飲みたいだけなんでしょ。あの子には絶対飲まさないでね」



意外にも、その言いようは切実さが感じられなかった。おそらく彼女もそのへんの機微がわかっているのだろう。お風呂を済ませてリビングに戻ると、息子が中腰でダイニングテーブルに覆いかぶさるようにして、鍋からキャベツと豚バラを真剣な表情で自分の器によそっていた。



「なんだ、ご飯まだだったの?」



「おう!」



私は頭にバスタオルをのせたまま、テーブルに置いていたスマホを手に取った。画面を立ち上げると、LINEに赤い丸が付いていた。今ごろになって、なぜ彼は私だけに声を掛けたのだろうかという疑問が浮かぶ。人差し指でアイコンをタッチした。



『11時に百草園の駅前で待つ。そば、奢る。(*≧▽≦)bb』



意味不明な絵文字に溜め息をついたところで、テレビから大きな歓声が聞こえてきた。画面を見ると、そこには赤白しま模様のジャージを着たラグビーファンたちが映り出されていた。




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